1993 上岡龍太郎独演会にて

「3人のランナーの物語」

 僕は上岡龍太郎のファンだ。結構筋金入りだ。
僕は大学時代を「上岡・鶴瓶のパペポTV」と「探偵ナイトスクープ」、
この二大深夜番組とともに歩んだといっても過言ではない。
(僕の頁のどこかに紹介してあります)

 その上岡さんが50歳手前にして、マラソンを始めた、という。
「しんどいことが大きらい、迷ったときは楽な道を選ぶ」、
そんな上岡さんが、よりによって「マラソン」?・・・ 少し驚いた。
93年春、そんな上岡さんの「独演会」を大阪まで見に行った。
上岡さんの語ったテーマは、まさにその「マラソン」。
三人のマラソンランナーの物語
だった。

 一人目は、上岡龍太郎さん御本人
49歳にしてランニングを始めた上岡さん。
初めて武庫川の河川敷を走ったときは800mで挫折した。
その後、1km、2km、5km、と徐々に距離が伸びていったこと。
そして初めて挑戦したフルマラソン、91年のホノルルのこと。
30キロ過ぎで足が痙攣して歩いてしまったこと、
ゴールしたとき、歩いてしまった自分が悔しかったこと、
「よし、走ってゴールできるまではマラソンをやめないぞ!」と誓ったこと。

 二人目は、世界最大の市民マラソン大会の創設者、フレッド・ルボー
その大会とはニューヨークシティマラソン
200万人のニューヨーカーが、沿道からランナーにメッセージを送る。
日本の声援のように「ガンバレ!」や「もっと速く!」ではなく、
「GOOD JOB!」「LOOKING GOOD!」。順位やタイムではなく、
走ること自体、最後まで走ることこそが素晴らしい。
世界一の大都市で行われる、世界一のマラソン大会。
それを作り上げた男は、自らもランナーで、
世界のトップランナーや市民ランナー達とともに、この街を駆け抜ける。

 三人目は、1986年のニューヨークシティマラソンを
4日と2時間48分で完走した男、ボブ・ウィーランド

彼は、ベトナム戦争で失った下半身の換わりに、
シューズをはいた二本の手で、ゴールを目指して‘這った’。
既に撤収を始めていた大会本部のフレッド・ルボーのもとに、
ボブがまだ、コース上を「走っている」と連絡が入る。
「ボブのゴール無しにはニューヨークマラソンの成功はありえない。」
フレッドはボブのために、ゴールゲートを再度立ち上げる。
ゴールのあるセントラルパークに群集が集まる。
ボブの一歩一歩に声援を送る者、固唾を飲んで見守る者。
ゴールまであとわずかのところで、ボブが崩れ落ちる。静まり返る群集。
力をふりしぼり再び立ちあがる彼に、大声援が湧き起こる。
あと200m、100m、50m、10m、5m、3、2、1。

大観衆の喝采の中、ボブは42.195kmを’完走’した。

上岡さんをよくご存知の方には分かると思うが、その話術は絶妙だ。
聞いている僕たちを、その場にいるかのように話の世界にのめり込ませる。
僕たちは上岡さんの話を聞きながら、いつのまにかセントラルパークに立っていた。
一歩一歩ゴールに向かうボブの姿を、手に汗を握り見守っていた。
・・・・単純な僕は、大変感動してしまった。
今まで、マラソンなんて殆ど意識したことがなかったけれど、
大いに興味を持った。きっと42.195キロ走ったその向こうには、
僕たちサラリーマンの平凡な日常では味わえない大きな感動が待ってる、
そんな気がした。それが、具体的にどんな感動なのかは、
全く想像がつかなかったけれど。

 結局、僕がランニングを始めるにはまだ少し時間がかかることになる。
でも、多分このときの上岡さんの話が、
僕にとってランニングを始める原点になったことは間違いない、とそう思う。

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