信越本線 碓氷峠(新線時代)

碓氷峠は、昭和38年から粘着運転による新線の運用が開始されました。この運用は、平成9年の長野新幹線運用開始まで約35年間続けられ、飛躍的な輸送量を向上してきました。
平成9年9月30日をもって地図上から消えた鉄路は、大きな遺産として山に残っていました。
ここは、童謡「もみじ」の発祥の地としても有名な場所であり、紅葉の頃の景色はキャンパスのようにきれいです。そこに廃線となった新線の橋梁があります。
左が軽井沢方面ですが、橋梁であっても66.7‰の急勾配は続いています。

アプト時代のめがね橋の奥に、廃線となった新線の橋梁が2つ見えます。現役の頃は、山を越えるEF63のブロアー音がここまで聞こえてきました。

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熊ノ平駅(停車場?)跡からの横川側のトンネル群です。アプト時代のトンネルもあり、廃線好きにとっては鳥肌モノの情景です。
左側の2つが新線で使用していたトンネルです。

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熊ノ平駅の、横川よりにあるアプト時代のトンネルです。左は既に下り勾配になっていたため、トンネルが半分埋もれている状態です。中を覗くと完全に埋まっている状態でした。
右側のトンネルは、熊ノ平駅で交換時に長い車両を退避するための突っ込み線です。そのため水平なトンネルになっていまが、貫通はしておらず、中は真っ暗です。

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秋真っ盛りの紅葉の山々です。この碓氷橋も2度とEF63が走る事はありません。

信越本線として多くの人々を運んだ線路も、ほどなく錆びていきました。しかし、今にもトンネルの奥からEF63が飛び出して来そうな気配があるのは何故でしょう。まだ鉄が生きているのでしょうか。


  ある事故のお話

この碓氷峠の新線で、列車暴走による事故(昭和50年10月28日)がありました。これにより、EF63の5号車、9号車が廃車となっています。この事故は、軽井沢から横川へ峠を下りていた回送のEF63とEF62が許容速度を越えて制御できなくなり、最後の第一トンネル(横川寄りの最後のトンネル)内のゆるい右カーブで脱線し、車体左側をトンネルの壁に押し付けながら通過、トンネルを出たと同時に崖を落ちて行ったという事です。最終的には時速60kmほどになったそうです。
第一トンネルの壁にこの時のEF63の擦り傷があるとの噂を確かめてきました。
なお、幸いなことに重大な事故であっても犠牲者はおらず、3人の重軽傷ですみました。
<本件は、鉄道ファン 1997年12月号に写真付きで小さく紹介されています>
真ん中の暗いところが第一トンネルの出口です。ここから手前の崖に落ちてきたと思われます。ある雑誌でその時の写真を見た事がありますが、木が薙ぎ倒され、台車と車体がバラバラになっていました。現在でも木が生えておらず、広い空間が残っていました。

これが第一トンネルの出口です。壁の上に微かに擦れたような痕と、出口の角が補強されたような痕が確認できますが、本当にEF63の傷かは判別できません。しかし、車体が傾いた時に当たる位置としては、十分に考えられます。


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