やさしいウソ

               # 油彩 キャンバス ミクストミディア  528mm×460mm

メキシコ人はウソツキである。これは本当。
 メキシコを旅行していて、地図を見せながらその行き先を尋ねたら、大概の人はきちんと教えてくれる。ところが言われたとおりに行っても、まずたどり着くことはない。そんな経験を1,2度もすれば「あいつらはウソツキだ」と思うのも無理はない。
 では、なぜ彼らは平気でウソをつくのか。
 首都であるメキシコシティに住む教養人ならともかく、地方の田舎の人は地図が読めない。だから地図を見せて「ここに行きたい」と聞いてもダメ。それなら「俺は地図が読めないし、この場所も知らない」と言えばいいのに、なぜそうしないのか。
 ちょっと想像すれば簡単なことだが、彼らの教育レベルはあまりにも低い。義務教育である小学校ですら、まともに卒業していない人がたくさんいる。家が貧しいから勉強どころではないのだ。そしてそのことを彼ら自身恥じてさえいる。プライドが高いのだ。だから、金持ち日本から海外旅行でやってきた浮かれている連中に対して「俺はあんたと違って、貧乏で勉強してないから地図は読めない」など、どうして言えるのか。
 さらにメキシコ人は、人の気持ちを傷つけることをとても恐れている。傷つけられた相手に暴力でもふるわれてはたまらないからだ。「私は知らない」と言うスペイン語「NOSE(ノ・セ)」は彼らにとって、相手の気持ちをひどく傷つける言葉なのだ。実際、私も生活しているなかで、意地悪くわざと「ノ・セ」と言われて腹を立てたことがある。
 相手を怒らせてはいけない、でも本当のことは言えない、その葛藤の末、流暢に、その場所への行き方を教えてしまうことになる。彼らのウソは旅行者相手だけではなく、実生活のなかでも普通に使われている。私だってメキシコ生活のなか、何度ウソをついたか数えきれない。
 乗ったタクシーの運転手のおじさんと話しをしていて「お前は素敵な娘だ。この近くにある滝をお前と見たい。今から一緒に行こう」などと調子よく誘われることがある。その時に「わたしゃアンタと、滝なんぞ見たくもないよ」と本当のことは言えない。そんなこと言ったら傷つき怒ったおじさんに何をされるかわからない。人気のないところに連れて行かれてお金を取られるかもしれない。そこで「ごめんね。家で旦那(旦那なぞいないが)が私の帰りを待ってるの。早く帰らなきゃいけないの」としおらしくウソをつく。そうするとおじさんは残念そうに「それじゃ仕方ないね」と素直にだまされてくれる。ウソは大切でやさしいものだ。
 最後にメキシコ第一の詩人である“オクタビオ・パス”の言葉を引用しておこう。「メキシコ人はウソをつくが、それは幻想を抱くことに喜びを感じるからであり、絶望しているからであり、自分の汚らしい現実を超えたところに身をおきたいと願うからである。」
 みなさん、ウソつきを嫌わないでください。
 

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